雷電と八百長

雷電為右衛門
   乃木神社から山王下に到る赤坂通りの中間に赤坂5丁目の交番があり、そこから北へ少し行くと急坂の三分坂(さんぶんさか)がある。この坂に沿って、江戸時代中期の力士雷電(1767-1825)の墓がある報土寺が位置している。寺の梵鐘は雷電が寄進した。身長190センチ、体重170キロで、余りにも強すぎたので、雷電にはツッパリをしてはいけないなどの禁じ手が課されていたが、それでも勝率が9割を超えていた。

   力士は当時、諸藩に抱えられていた芸人であって、強い者が多少の手加減をすることは常識であったが、雷電はこれを拒んだ。「素手で渡り合い、死力を尽して攻防を繰り出した結果であれば、どのような結果が訪れようと、己れ自身にもまた相手方の相撲人に対しても、何人に対しても、悔いはあっても、うしろめたさはございません。」と飯嶋和一氏の著書に出ている。

  現在の八百長相撲はこのような歴史からみると、別に不思議なことではない。勝負の結果から判断して、大相撲には説明のできない数値が沢山ある。場所が終わって成績表をみれば、7勝8敗の力士よりも、8勝7敗の力士が圧倒的に多い事は誰でもご存じのことだ。また、2003年に貴乃花が引退してから、日本人横綱は出ていない。大関までは昇進して期待はされるが、ここで終わってしまう。

  大関で終わる力士は日本人だけではなく外国人力士も同じだ。大関昇進の基準として3場所続けて35勝と言うのがある。ところが、昇進したとたん、せいぜい25勝どまりとなる。もっと不思議な数字は、15日間を前半と後半に分けて勝負を見ると、大関は前半は強いが、後半になると負けが増えてくる。上位陣との取り組みが多くなるからということを割り引いても、おかしなデータだ。

  大関は2場所連続で負け越さなければ、その地位に留まれる。全勝しようが8勝で終わろうが、月給は変わらない。いまどきサラリーマンでも、このような事はない。横綱になって苦労するよりも、細く長く大関の地位にいたいというわけだ。また、三役と平幕との間を巧みに上下している力士も目につく。年間90日というハードな場所と、頑張って苦労することはないと言うシステムが無気力相撲八百長を生む温床となっている。


飯嶋和一著「時代の闇を放り投げた力士雷電為右衛門/雷電本紀」
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