冤罪事件の原点

司法の問題点 
  裁判員制度が始まり、検察の腐敗が暴かれ、悪徳弁護士が増加して社会問題となり、今年ほど司法が話題となった年はないであろう。その中で、裁判官とその権威の頂点に位する最高裁判所には問題はないと世間では認められている。最高裁憲法の番人として絶対的な権力を持っているから、誰からも批判が許されない。しかしながら絶対的権力は、民主主義社会でも、腐敗したり暴走したりすることは周知の事実である。


   電車内の痴漢をテーマにして「それでもボクはやっていない」という映画に出てくる話であるが、無罪の判決を出した裁判官が地方の片田舎へ配転されるシーンが描かれている。要するに、検察という国家権力が起訴をしたことに対して、無罪の判決を出すことは国家に対する反逆と取られかねないことが示されている。

  憲法76条第3項に「すべての裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される」とあるが、これを遵守すると、映画にあるようなことになる可能性がある。検察が起訴した案件はほとんどすべて有罪となることからも示されているように、裁判官は判決を下すときに、頭の中に自分の将来の姿が浮かび、無罪の判決を下すには相当の勇気がいることがわかる。かくして先日にも報告したように、冤罪事件はなくならない。

  無罪の判決を出して、上告されて高裁で有罪との判決が出たら、この一審の裁判官には黒丸がつく。このように、裁判官の勤務評定をしている部署が最高裁事務総局であり、ここには約3000人の裁判官の1割、すなわち300人の裁判をしない裁判官が目を光らしている。現在の最高裁の15名の判事のうち半数がここの出身で、経歴を見ると、東大か京大の卒業で、在学中かその卒業直後に司法試験を通ったエリートのみがなっている。30歳ごろまでは裁判官として実務をこなし、その後、20年前後は東京の最高裁事務局勤務であることも共通している。つまり、司法改革といって、国民の裁判参加という美しい名の下で、日本の司法行政を牛耳っていこうというあまり美しくはない事を業務としている。