日本の一番長い日

空白の10日間
  「日本のいちばん長い日」から66年目の夏を迎えた。あの年1945年の7月17日からベルリン郊外のポツダムで始まった米英支ソの四国会談は26日になって、日本に対して13条から成る無条件降伏勧告の宣言を発した。この日から8月15日の3週間に広島と長崎への原爆投下、ソ連満州国侵攻、アジア各地にいた人たちの犠牲、日本各地への空爆、戦場での戦闘などによる犠牲者が多数出た。

 7月の初めには沖縄は米軍の支配下に置かれていた。7月26日に宣言が出されるまでに、すでに日本軍は制空権と制海権を連合軍に奪われ、全くなすすべがなかったはずだ。宣言が出された時の日本の反応は当時の新聞が伝えている。新聞の論調は日本軍の意思であるが、この宣言に対して「笑止千万」というものである。時の鈴木貫太郎首相も無視と態度を決めていた。7月26日から8月6日の広島の日までを、空白の10日間とする。この間に、日本の為政者は何を迷っていたのか解明して、責任の所在を明白にしていきたい。

  しかしながら、宣言が出された時に、直ちに受諾の英断を下していたならば、原爆投下もソ連軍の参戦も阻止できたはずだ。この判断の遅れは日本国民に多大なる犠牲を強いることとなった。重要なことでの問題の先送りによる犠牲は、その後も近年のバブル処理など様々な場面で繰り返されてきている。あの時に適切な決断をしていたら、日本はもっと豊かで大きな国となっていたと思われる。時の為政者の意思決定の遅れは許されない。終戦記念日を迎えるにあたり、改めて犠牲者の冥福を祈りたい。

 1945年の主な出来事を時系列的に掲げておく。
2月4日〜11日 ヤルタ会談(米英ソ首脳会談)
2月11日 ヤルタ協定
5月07日 ドイツ降伏
7月16日 原爆実験(米国ニューメキシコ州
7月17日〜8月2日 ポツダム会談
7月26日 ポツダム宣言 (米英支ソ四国共同宣言)
8月06日 広島原爆投下
8月08日 ソ連対日参戦
8月09日 長崎原爆投下
8月09日 最高戦争指導会議(鈴木貫太郎首相)
8月10日 ポツダム宣言受諾表明
8月14日 日本のいちばん長い日
8月15日 玉音放送
9月02日 降伏文書調印
*「日本のいちばん長い日」半藤一利著 文春文庫 \590