激動の昭和43年

激動の1968年(昭和43年)
1968年3月に何が起きたか
    フランスの5月革命は、中国における文化大革命とともに世界的な動乱の引き金となった。きっかけは1968年3月22日で、ベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動に発展、ソルボンヌ大学学生の自治民主化運動につながった。東欧のプラハでも民主化運動が起きたが、8月にはソ連の介入で幕が閉じられた。プラハの春と呼ばている。

    騒乱はパリーから始まり、5月にはドイツのボンで5万人の抗議行動、続いてイタリアのフィレンツェやローマでの大学学生抗議行動に続いた。ドゴール大統領は軍隊を出動させて鎮圧し、国民議会を解散し、総選挙を行って事態の解決をみた。労働者の団結権、高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認など教育制度の民主化が改善された。日本では遅れて同年夏に東大安田講堂占拠に象徴されるような全共闘の活動などに飛び火し、世界史的にも稀な大学と政治の季節の導火線となった。

   中でも最も大きな国内騒動となったのは中国で、5月革命に先んじて、毛沢東が権力維持のために起こした権力闘争が文化大革命である。共産革命の修正主義や市場解放勢力に対する運動であったが、紅衛兵といわれる学生たちが毛沢東思想を勝手に解釈し、国内にある文化遺産、書籍、親子関係までもが破壊され、国民には裏切りと無気力と告発へのおびえだけが残った不毛な闘争となった。山崎豊子の小説「大地の子」では詳しく描かれている。

   10年間で300万人が投獄され、500万人が処刑されたという。1960年代に学生生活を送った人々は失われた世代と呼ばれて、教育を満足に受けられなかったため、基礎学力が不足し、新しい技術や知識の習得も困難な世代を指している。「指導者毛沢東が間違って引き起こし、反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災害をもたらした内乱である」と訒小平は規定している。多くの犠牲を払ったが、得たものは何もなかった文化大革命といわれているが、そうではなくて、現在の中国にとって避けて通れなかった道と思う。