高橋是清3

高橋是清(3)
   浜口雄幸民政党内閣は1929年4月から1931年4月の2年間であったが、大蔵大臣井上準之助とともに、緊縮財政で日本経済をドン族に落としてしまった。第一次大戦後の世界の趨勢は軍拡から軍縮への流れの中にあり、浜口としては軍縮で出た財源をもとに国民負担軽減の施策を目論んだものとして評価されていた。その反面、緊縮財政がデフレをさらに悪化させ、負担軽減どころか、生活を圧迫して社会不安を起こしてしまった責任を問われた。

   そのため井上蔵相は1932年4月に暗殺されたし、浜口首相もロンドン海軍軍縮会議で欧米に譲歩したことで、右翼から狙われて、1930年11月に東京駅で銃撃された。次の若槻内閣も浜口内閣の政策を踏襲してだけで経済は低迷したままだった。次の犬養内閣は1931年12月にできたが、翌年5月15日に暗殺されたので、僅か半年であった。この内閣で蔵相に就任した高橋是清は、そのまま首相を兼任することになった。1921年11月から半年間、首相を務めているから2回目の首相就任である。

   その政策と成果については、すでに前回述べている。要するにデフレ脱却のために緊縮財政から積極財政に転じたものだった。経済は回復させたのだが、これですべてが順調に行ったわけではない。各国ともデフレ脱出のために軍需予算を増大させた。是清は軍事と共に地方での公共事業も同時に増やした。これで経済回復が早まりインフレ傾向が出てきたので、軍事予算削減などの引き締めに転じた。このため軍部の反発をかい36年の2.26事件で暗殺されたのである。軍事費が本格的に増えだしたのは、高橋是清の死後のことである。