高橋是清(2)

ケインズよりも先に有効需要
   浜口首相の狙いは構造改革で競争力を高め、輸出を増やして、不況から脱することだった。しかし設定した固定為替レートは高すぎ、逆に輸入が増えた。緊縮財政の喉を絞めてしまった。金本位制のもとで金保有が減ったため、政府は財政支出をさらに減らす必要に迫られた。これによって経済はさらに落込み、財政支出を削っているにもかかわらず、財政はさらに悪化した。



   ロンドン軍縮会議・五カ国条約の批准に不満を持った分子に、1930年5月、浜口首相は襲撃された。次の首相の若槻礼次郎首相も構造改革路線を踏襲したため、日本経済は壊滅的状況になった。ついに1931年12月に政権交代が行われ、政友会の犬養毅内閣が発足した。犬養首相は首相経験者の高橋是清に大蔵大臣就任を懇請した。

     高橋は矢継ぎ早に、デフレ対策を行った。まず金輸出の解禁を止め、さらに平価の切下げを行った。最終的には約4割の円安になった。そして積極財政に転換し、その財源を国債で賄った。さらにこの国債を日銀に引受けさせることによって金利の上昇を抑えた。1929年から3年間はほぼゼロの経済成長率だったが、その後3年間にわたり、5%から10%の成長を遂げた。

   列強各国の中で、日本だけが恐慌からの脱出に成功した。物価の上昇は年率3〜4%にとどまり、日銀券の発行量は増えたが、工業生産高は拡大した。そしてこの間不良債権の処理も進んだ。ケインズ理論が世に出る前に、高橋是清はその理論を実証していたことになる。