検定制度の廃止論

強制から関与へ 検定制度の廃止論
 沖縄戦の集団自決を日本軍は強制したのではなくて「関与があった」という記述で、高校日本史の教科書問題が決着した。教科書検定を担当する文科相の諮問機関「教科書用図書検定調査審議会」であるが、他の霞ヶ関の諮問機関と同じように審議会とはいえ、任命された委員が席に着くと予め省の職員が準備した資料が机の上に置かれていることが普通である。この審議会が全くの密室であることから、この問題の迷走が始まった。
 
 3月に軍の強制を削除させた文科省に対して、沖縄からの再三の抗議が出てきた。政府はこの問題には介入しないと言いながら、「修正できるかどうか、関係者の工夫と努力と知恵がありうるかもしれない」と官房長官がコメントをした。首相まで「記述について、言う立場にはない」と言いながら「沖縄県民の思いは重く受け止めている」と語り、参議院選挙の敗北も頭に入れて、政治介入を示唆してきた。

 今回、なし崩し的に政治的訂正で幕引きがなされたが、これでは何のために教科書検定が行われているのか分からなくなってしまう。歴史の教科書は近隣諸国との関係、有名な家永訴訟など、戦後の検定の中で多くの問題を抱えてきた。歴史の生存者が現存する、わずか60年前の歴史認識でも真実の追求が難しいのであるから、何百年も昔の話では様々な解釈があるのは当然であろう。それを文科省既得権益として牛耳っている姿がおかしいのだと気付かなければならない。

 出版社、執筆者、審査官、文科省の関係する役人など教科書に群がるもろもろの巨大なシステムが想定されるが、これらの関係者にとっては検定制度がなくなると死活問題となるのである。しかしながら、近代化の幕開けであった明治時代ならともかく、さまざまな情報が自由に手や耳に出来る現在では、検定制度そのものが意味を失っている。

近隣諸国とのことでも、国が教科書を定めるから問題になるのであり、教科書を自由にしたら、文句をつけられる筋合いはなくなる。教科書検定制度をなくすことで、税金の無駄遣いも減るし、教育の現場ではもっと自由な発想で、創造性豊かな教育を施すことが可能となる。まさに一石二鳥ならぬ、三鳥の考え方であろう。
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