サミットの変遷

サミットの歴史と意義
 1973年のオイルショック後の世界同時不況を受けて、1975年にフランスの提案で先進6カ国米英仏独伊日の首脳会議が開始された。第1回目はフランスのパリー郊外にあるランブイエ城で行われた。国連の各国外交官レベルの交渉とは違って、直接的な首脳会議であるから決断力があるといわれて、国連を補完する意味が指摘されてきた。


 その後、カナダが加盟して7カ国となり、冷戦時代には民主主義と人権重視という西側諸国の価値観を共有することで一致していた。1990年に米国ヒューストン会議で、ソ連ペレストロイカ、即ち体制改革を支持したことがソ連の崩壊と冷戦終結への契機となった。ここまでは西側諸国の結束という意味で一定の評価をすることができる。

 その後、ロシアが参加してG8となって今日に至っている。しかしながら、ロシアの参加は価値観を共有するという意味を失ってしまい、国連の機関との違いが不透明となり、とくに2001年同時多発テロ以降、アフガニスタンおよびイラクとの紛争には、サミットの無力をさらけ出した。中国など新興国の台頭で、サミットそのものの指導力も失われ、今回も招待国を含めると22カ国となり、ますます各国の共通の理念を打ち出すことが困難となってきている。

 国連には国連憲章があるが、サミットにはこのような枠組みは存在しない。価値観の共有という錦の御旗を失ったサミットは、その存在意義が問われている。だから反サミット集会が会議ごとに勢いを増し、すでに札幌では世界各国から数万人規模の活動家が終結しているようだ。

 すでに、環境問題、世界経済、核不拡散、アフリカ支援、食糧問題などについては、事務局レベルでの草案が準備され、円卓会議にはその草案をもとにして議論するといっても、通訳付きでは時間が限られているから、形式的に行動指針を盛り込んだ共同宣言をするだけのようだ。
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