野茂選手の引退

野茂英雄選手と野口英世博士
 野球協約の隙をついて、1994年に日本を脱出して大リーグ入りを果たし、数々の記録を残した野茂投手の引退ニュースを聞きながら、名前がやや似ている野口英世博士のことが思い出された。野口博士については、先にもこのブログで記したことである。野茂投手と同じように、博士は型破りな方法で日本を飛び出し、苦労しながら米国に定着して細菌学の世界で、数々の記録をものにしたといわれている。


 博士の肖像写真は財布の中にある現在の千円札にあるが、身の回りの人に聞いても、このことを知っている人は少ない。日常的にはお札の肖像写真などは気にしないみたいだ。細菌学の教科書には、日本人学者の名前としては北里柴三郎志賀潔などがコッホやパスツールと並んで記載されているが、肝心の野口博士の名前が見当たらない。

 子供の伝記物語では、今でも高名な学者として登場している野口博士は細菌学の世界では、その業績は抹殺されていることが分かる。1928年(昭和3年)にアフリカのガーナで黄熱病の病原菌を追っていたが、自ら黄熱病に侵されて亡くなった。その時、すでに博士は南米で黄熱病の正体を見つけて論文として発表していたが、この業績が全くの誤謬であったことが後年明らかにされた。

 博士の発見したといわれている黄熱病にしてもトラコーマにしても、その正体はウイルスであり、当時の光学顕微鏡では見ることのできないサイズであったからである。渡米してから28年にわたり博士が必死になって追い求めていたものが、その当時の道具では絶対に見つけ出すことのできないウイルスであったことは、誰も知らなかった。現代ならば、必ず新しい科学上の知見については、他の科学者が追試をして確認することが普通であるが、その当時にはそのような仕組みが確立されてはいなかった。

 博士も幾多か自分で追試をしたと思われるが、自分の生い立ちを振り返り、人には負けるわけにはいかないという闘志が空回りして功を焦ったということであろう。日本での英雄伝説は昭和になって、軍部を中心とした学校教育には欠かすことのできない題材として、博士の業績が利用されたことによるものと思われる。明治時代には江戸時代の二宮尊徳が教育の模範として使われていたのと同じであろう。

 野茂選手とは全く違う話になってしまったが、志を米国に求め、求道者的にその道を極めて,後進のために道を切り開いていった二人の姿は、何か重なるところがある。野茂選手は「野球人生としては悔いが残る」と発言しているが、野口博士も死ぬ間際の胸中には同じ言葉があったのではないかと推察する。博士の最後の言葉は「何が何だか分からない」というものだった。

*遠き落日(上・下) 渡辺淳一著 角川文庫
野口英世記念館
野口英世記念会館
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