東条英機氏の手記

戦争肯定の手記
 1941年12月8日にハワイの真珠湾攻撃を仕掛けた時の東条英機首相は、戦局の悪化を受けて1944年7月に辞任した。敗戦直前の1945年8月10日から14日までの間に残された彼の手記が公表されている。


 7月26日のポツダム宣言から、日本がこれを受諾する8月15日までに、何が起きていたのか数々の疑問があるが、今回の手記によりその一端が示されている。これによると、戦争目的を「東亜安定と自存自衛」として、ポツダム宣言受諾を「敵側の隷属化に立つに至る」としている。また、敗戦理由を「敵の脅威におびえ簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂」と責任転嫁をして、軍人の論理に固執している。開戦に及んだ指導者としての責任にも触れている。

 政府がポツダム宣言受諾を決めた長崎原爆投下の8月9日に続いて、10日に首相官邸で開催された重臣会議の記載があり、戦争目的が達成されないまま宣言を受諾すれば、戦争による多くの犠牲者の死が無になる、という趣旨の発言をしたと記述されている。天皇の裁断で終戦を受け入れたことを示す記述がある。

 14日には、首相時代の秘書官あてで「死をもっておわび申し上ぐる」、戦犯に問われることを予期して「敵の法廷に立つごときは日本人として採らざるところ」とも記して自殺する覚悟を述べている。A級戦犯として、東京裁判で死刑判決を受けて1948年12月に処刑された。

 これにより戦争責任者としてのその信条の一端が分かるが、7月26日のポツダム宣言から広島原爆投下の8月6日の10日間の日本政府の動きは依然として、謎のままである。新聞をはじめ大方は本土決戦という腹であったと思われるが、勝ち目の薄い戦を本当にするつもりであったのであろうか。
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