プラハの春

1968年8月20日 プラハの春
 40年前の1968年8月に、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍がチェコプラハに侵攻して、民主化運動であるプラハの春を押しつぶした事件だ。ロシア軍のグルジア侵攻とともに思い出される悲劇である。今回の事件は40年前のものとはだいぶ状況は異なるが、大国が小国に軍事侵攻した事実は全く同じである。


 1964年の東京五輪ソ連軍侵攻後2ヶ月後に開かれた1968年のメキシコ五輪体操競技で金メダルを獲得したチェコベラ・チャスラフスカさんが久しぶりに、欧州のメディアに登場して、ソ連からロシアに体制が変わっても、何も変化してはいないと述べている。メキシコでは「祖国の屈辱を跳ね返すため、最高の演技を誓って競技に臨んだ」と結んでいる。

 侵攻の機会を窺っていたロシアの挑発に、まんまと乗ってしまった感があるが、民主主義国家グルジアに軍事介入して、グルジアの政権転覆をはかったロシアの行動を許すことはできない。ロシアの目的は石油パイプラインの確保である。グルジアNATOに加盟することを阻止することで、この目的が達成できる。これを機会として、旧ソ連の支配にあった他の共和国も、それぞれに東側か西側への選択を迫られることになる。
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