私はやっていない

疑わしきは罰せず
 刑事事件の推定無罪である「疑わしきは罰せず」という原則が崩壊している。警察、検察、裁判所という司法権力は「疑わしきは罰する」という推定有罪という方向に走っているようだ。この記事は3月5日に掲載した記事である。この声が最高裁判所に届いたのか、ようやく推定無罪という裁判官の良心が蘇ったかのようだ。







 刑事、検事、裁判官も与えられたノルマをこなして国家から養ってもらい、しっかり退職金を手にする構図の中で自己の保身しか考える余地がないからであろう。だから、「疑わしきは罰せず」などと、いつまでも書生みたいなことを言ってと軽蔑し、推定無罪は風前の灯となっている。

 典型的な例が、電車内で起こる痴漢冤罪である。満員電車で通勤している人には、いつ災難が振りかかってくるかわからない恐れがある。自分は天地神明に誓って痴漢などはしていないと思っても、何かの拍子に誤解を受ける可能性がある。説明すれば分かるなどと思っても、知らないうちに逮捕拘留され、密室状態で自白を強要される罠にはまってしまう。

 手練手管の刑事に、罪さえ認めれば20万円の罰金ですぐに解放するなどと迫られると、ほとんどの人が無実の罪を認めてしまうという。否認し続ければ、この先、何か月も勾留され、裁判になり、社会的地位も失い、家族にも多大な損失を与えかねないからである。裁判員制度で司法の片棒を担がされる国民は、改めて「疑わしきは罰せず」との書生論を胸に秘めて欲しい。