制度の狙い

裁判員制度の開始

 今週の21日からこの制度が始まる。未だに国民の大多数が、制度の本当の狙いを理解しているようには思えない。大学にいる法律の先生ですら、この目的は裁判への市民感覚の反映だとか、司法の民主化などと学生に説明している教授がいる。最高裁の用意した資料でも、身近で分かりやすい裁判とか司法の信頼性向上などの文句が並んでいる。



平成11年7月に開始された司法制度改革審議会は何回かの会合を開き、平成13年6月に意見書をまとめている。この意見書の中から、裁判員制度の狙いを抽出すると、国家による国民の意識改革であり、精神構造の改造にあることは明確である。この目的は米国から提言されていた日本の構造改革路線を継承するものである。




 江戸時代から明治維新を経て、日本では「おかみ」による統治意識が根強く定着している。これは私企業の中でも同じで、各業界は関係する官庁の意向を無視しては生きてはいけない。何でもかんでもお上任せで、文句ばかりいう国民の統治意識を変革させて、自由競争の世界では自分で決めろ、お上に頼るな、責任をもってことにあたれという風土を定着させることである。




 お上に頼る封建的な意識から近代的な個の精神的な独立を目的とした崇高な理想は当然のことであるが、この道具として裁判員制度が適当とは思われない。例えば、民主党代表の秘書が逮捕されたことで、代表は潔白を主張しているが、メディアの調査によると国民の70%が裁判も開かれていない段階で代表に責任があると判断している。




 お上が逮捕して起訴した段階では、まだ有罪か無罪かは判明していない。警察や検察のすることがすべては正しくはないことは、これまでの数々の冤罪事件が証明している。このような意識の国民が裁判員として公正な判断を下せるとは思えない。恐ろしいことが始まるが、おそらくは選ばれた大部分の裁判員は、わけも分からずに裁判官の説明をそのまま信じて、その言う通りになることであろう。これでは全く予算の無駄遣いと同じことが繰り返されることになる。