自民党支配の終焉

敗因を語る
 首相辞任の弁を聞いたが、選挙惨敗の引責で辞任するというだけで、任期ギリギリまで総裁でいたいといって、何ら危機感が漂ってこなかった。これでは党内の戸惑いと反発を抑えきれない。このままでは自民党の再生は難しい。選挙の顔として選んだ総裁のはずが、全くの逆目となったので、裏切られた思いの党員は多い。

 民主党を選択した側でも民主党政権には「漠然とした不安はある」が、自民党の任せておくと「確固たる不安がある」といわれている。それほどに選挙民の間で自民党への不信感は強かった。結党時の1955年といえば、敗戦後の連合軍による占領行政を脱して、もはや戦後ではないと言われた時だ。

これ以降、30年間にわたり、日本経済は右肩上がりの成長を遂げて世界第2の経済大国となった。これを自民党政治の成果というが、実際には成果ではなくて、成長時には政治も行政もあまり余計なことはすることはなかった。むしろ官僚と族議員という強固な癒着が生じて、彼らの好き放題に予算運営がなされた。


 選挙民もこの時には、毎年、所得が増加するから、あえて別の政権への選択という考えを持つ人はあまりいなかった。転機が来たのは、1980年代後半のバブル経済が崩壊したときである。これ以降、日本は失われた10年どころか、暗黒の20年を迎えることになった。株価が低迷して、個人所得の伸びが停止した時が、自民党政治を変革させる絶好に機会であった。ところが、官僚と族議員は彼ら自身の保身のことしか眼中になく、「国全体をどうすべきか」という視点を生み出そうとはしなかった。


 この時に危機感を抱いた選挙民が下した結果が1993年にあらわれて、細川政権が誕生した。しかしながら、まだまだ力の衰えていなかった官僚と族議員は、あっという間にこの政権を倒して、再び旧態依然とした自民党中心の政治に戻した。小泉改革の方向はよかったから、選挙民は支持したが、改革の担い手が、相変わらずの官僚と族議員であったから、その結果は民意とはほど遠いものとなって、最後には無能首相の登場となって、自民党支配に幕が下ろされた。
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