坂の上の雲(2)

国力の充実と国民の幸せ
  明治維新後、遣欧使節団などを通して急速に欧米にならう風潮が形成されて、押し寄せる外圧に対抗するために大陸へ進出して、国力とはかけ離れた1894年日清戦争、1904年日露戦争を引き起こした。幸い局地戦に勝利して下関条約ポーツマス条約という講和を結ぶことに成功した。この勝利という成功体験こそが1941年に太平洋戦争を起こして敗北した流れを形づくった。



  19世紀から20世紀にかけての世界は欧米列強の植民地支配の総仕上げの段階で、明治維新後これを模倣した日本の存在は彼等にとっては目障りな存在だった。これに対して日清と日露の局地戦で勝利した日本は軍部、特に陸軍を中心としてますます対外進出に傾いて行った。1935年前後のいくつかの軍事行動がその表れで、これに対してアジア進出をもくろむ米国からの圧力はますます強くなっていった。この極限が1941年7月の日本に対する石油供給ストップである。



  かくして1941年12月8日の真珠湾攻撃に至るのであるが、日清と日露戦争の場合と全く同じように、対外進出を図る日本に対する欧米列強との利害対立で、ABCD包囲網などで日本としては追い詰められた結果としての開戦というのが真実の姿ではないかと思うようになった。この時の日米の国力比較では、GDPは12倍、鉄鋼生産量は20倍であり、石油はほとんどすべて米国からの輸入に頼っていた。これだけみても日本が勝てる相手ではなかったはずだ。



  失われた人命500万人を犠牲として、1945年8月15日に敗戦を迎えた。その時、日本には人口7000万人の人々だけが残った。それから40年経過して、米国に次ぐ経済大国を築き上げた。歴史は繰り返すとおり、これに対して、欧米は再び日本の台頭を抑える動きを始めた。仕掛けられた罠は二つあり、一つは英国からの品質管理などの国際標準であり、もう一つは米国からのファイナンス戦争である。(この項続く)
http://iiaoki.jugem.jp/