抑留はどうして起きたか

シベリア抑留者法
  数年前にウズベキスタンの首都タシュケントで開かれた国際会議に出たときに、この町には日本人の作った建造物が残されていることを知った。市の中央にあるオペラやバレーの国立劇場である。1947年に旧満州から強制連行されて来た日本人捕虜が建設したものだ。劇場の横にはその間の経緯について記した碑が置かれていた。1966年に、この地を襲った大地震では、市内の建物が多く破壊されたが、この劇場は殆ど被害がなかったことで、地元でもサムライ魂として称賛されたという。
  

  1945年の終戦後、旧ソ連によって強制連行されて、奴隷のようにこき使われた日本人の総数さえ、未だに不明で、70万人から200万人という。先日、テレビで放映された山崎豊子作の「不毛地帯」でも、その様子が描かれていた。現存する元抑留者は7万人ほどで、平均年齢は88歳と見られている。

  1956年の日ソ共同宣言で、抑留に対する旧ソ連への賠償請求権を日本は放棄したから、国内問題となっていたが、ようやく平均50万円程度の特別給付金支給が決まった。1993年に来日したエリツイン大統領は、非人間的行為に対して謝罪した。しかしながら、どうしてこのような事態が生じたのか、旧ソ連だけの横暴だったのか、日本政府や軍はいかなる態度をとっていたのか、国民としては、歴史的に風化させてはならない抑留事件の全貌の解明を望みたい。
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