大戦終了後の攻防

占守島(しゅむしゅとう)の戦い
  ソ連の崩壊以降、ロシアでは第二次大戦における勝利を国家統合の象徴に使う動きが顕著だ。終戦65年を 「特別な年」と位置づけて、歴史問題に力を入れている。ロシア下院では9月2日を「第二次世界大戦終結の日」として、記念日に格上げする法案を可決した。日本がソ 連を含む連合国との間で降伏文書に調印した日だ。法案は当初「対日戦勝記念日」という露骨な名称で北方4島問題を牽制する狙いが鮮明であった。ロシアはポーランドとの和解を果たすなど大戦がもたらした「負の遺産」の解消に取り組んでいるが、 日本との間に残る北方領土問題では譲歩しない姿勢を示している。


  
   北方4島に関する歴史は明治8年(1875)5月に、日本と帝政ロシアとの間で結ばれた千島・樺太交換条約に始まる。この条約は署名した場所からサンクトペテルブルク条約と呼ぶ場合もある。これにより、樺太(サハリン)全島がロシア領に、シュムシュ島からウルップ島までの千島列島全てが日本領になった。この条約では、北方4島は当然に日本領土としていて、この千島列島には入っていない。これで幕末以来の日露両国間の懸案であった領土問題が解決した。その後、日露戦争後の1905年のポーツマス条約で、樺太の南半分が日本に割譲された。


  65年前の8月9日に、中立条約を破って突如、ソ連軍は満州へ侵入してきた。これにより、シベリア抑留、戦災孤児、日本軍に捨てられた開拓団などの様々な悲劇が起きた。8月15日にはすべての戦闘は終了したはずであるが、8月17日にソ連軍は千島列島の最北の占守島へ侵攻して、残留していた日本軍と激しい戦闘が行われた。この戦いの様相や意義が最近、明らかにされていている。スターリンの意図は、北海道を半分占領して、ドイツや朝鮮と同じ状態を作り出すことだったが、この戦いで千島列島への侵攻が遅れて、その間、米軍が北海道進駐を完了した。


浅田次郎著「終わらざる夏」集英社 上下とも1785円
*大野 芳「8月17日、ソ連軍上陸すー最果ての要衝・占守島攻防記」新潮文庫 540円
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