戦前の体質

検察の体質

  大杉栄(1885~1923)事件や小林多喜二(1903~1933)事件などを例に引くまでもなく、大正から昭和にかけての日本では、まるで無法国家のように、検察はしたい放題であった。いま話題の証拠改竄などは当たり前で、証拠創作まで平気でしていた。検察が気に入らない政治家を抹殺したことで、1934年に起きた帝人事件は、でっち上げの典型的な事件であった。

  


  帝人株が政治家に商習慣上の謝礼として渡された事実はあったが、それを収賄事件に仕立て上げていった。現職大臣2人、大蔵次官、大蔵省銀行局長、財界人など16名が贈収賄容疑などで検察に逮捕されて起訴された。平和主義者の斉藤実首相は内閣を総辞職しなければならなかった。3年後、全員無罪となった事件である。こうして政党政治が崩壊して、内閣は軍部に抑えられて戦争への道へ進んだ。

  戦後、民主憲法のもとで、GHQから司法制度改革を迫られたが、頭の働く司法官僚は改革を骨抜きにして、検察という司法制度を戦前のまま死守した。その結果、最高裁判事は形だけだが国民審査ができたが、検察関係のトップは国会の承認もなく、国民審査もない。僅かに、指揮権発動によって法務大臣が政治介入できるだけだ。

  その検察の体質にメスを入れようとしたのが小沢氏である。それに対する検察の小沢潰しが始まった。いざとりかかってみたが、帝人事件と同じで、なかなか起訴までできなかった。最後は民意という形で、今回の強制起訴となって続いている。問題を続けることに意義を見出している。帝国日本の体質をそのまま温存している検察のボロの一端が露出したのが村木事件である。隣の国を無法国家などと決めつけることはできない。
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