津波太郎

宮古市田老町(たろうちょう)
  吉村昭氏は自分の足で小説を書いてきた人だ。その中に「三陸海岸津波」という記録文学がある。ここに書かれている町が岩手県宮古市田老町だ。津波太郎という名前を持つくらい有名な津波の町だ。数年前に八戸からリアス式海岸沿いに鉄道で南下してこの町に宿泊したことがある。夕方、吉村氏の描く、田老町のシンボルとでもいうべき、総延長2.5キロにも及ぶ高さ10メートルの防波堤を見学しに出かけた。

   それはまさに海と町を隔てる万里の長城だった。昭和9年の津波の日から70年目の、平成15年年3月3日に堤防の完工をめどに、田老町は、津波防災の町宣言をおこなった。誰が見ても、これがあればどんな巨大な海の壁が押し寄せてきても、十分に跳ね返す事が出来ると信じられるものだった。ところが、3月11日にこの長城がもろくも海の壁に潰された光景がTVに出てきた。人の小細工を嘲笑うような自然の力をまざまざと見せつけられた。

  津波の記録は、1896年6月15日、明治29年から始まる。それ以前の記録はあまりない。地震の強度はたいしたものではなかったが、吉村氏の本によると「羅賀は、楔を打ちこんだような深い湾の奥にある。押し寄せた津波は、湾の奥に進むにつれてせり上がり、高みへと一気に駆け上っていったのだろうが、50メートルの高さにまで達したという事実は驚異だった。」と生存者の声を伝えている。

   次は1933年3月3日、昭和8年のことだ。この時は震度7位の強震で、津波は何回も押し寄せた。戦後、1960年5月23日、昭和35年チリ地震による太平洋の裏側から来たもので、気象庁津波情報を出していなかったので、突如大津波に襲われた。この時には大堤防がかなりできていたので、田老町での被害は少なかったが、大船渡などを中心として100名を越える死者を出した。田老町津波対策は防潮堤だけでなく、町を歩くと至る所に、津波避難通路の標識を目にすることができる。

   少しだけお世話になった田老町の皆さまに対して何もできないのが残念であるが、せめて、郵便局での災害基金だけはしてきた。

吉村昭著「三陸海岸津波」文集文庫