避難民の記憶

海外からの引揚者
   1945年の敗戦時、国外にいた日本人は軍人と軍属、及び民間人がそれぞれ約350万人、合わせて700万人だった。祖国に戻れず亡くなった人も多く、海外から引き揚げた軍人と軍属は310万人、民間人は320万人である。民間人の引き上げは集団引き揚げであるが、密航や個別に戻ってくる人もいた。

   帰還事業は米国から約200隻の船舶の貸与を受けるなど、米国の援助により急速に進み、敗戦の翌年までに500万人が日本本土に戻ってきた。ソ連に抑留されたり、中国内戦で留用されたり、帰還が遅れた者もいた。中国残留孤児の多くは国策として送り込まれた開拓団員の子ども達であった。地域別では、民間人の場合、開拓団が送り込まれた満州からの引き揚げが100万人で最も多く、中国の50万人、韓国の42万人、台湾の32万人と続いている。


   災害避難民の姿を見ているうちに、幼き頃の意識が蘇ってきた。もう二度と戻ることのない奉天瀋陽)の家を離れて、身の回りの僅かのものを持ち、旧ソ連軍や中国軍に追われながらの逃避行である。大連まで無蓋の貨物列車に揺られながら、まるで雑貨のように運ばれた。それでも列車に乗れた人々は良かったのである。大連の葫蘆島の収容所で船に乗れるまで避難民生活を強いられた。着いた佐世保の緑が鮮やかだった記憶がある。

   引揚者たちは国内の親戚や知り合いのところを訪ねて、安住の地を見つけなければならなかった。住む所も食糧も交通も乏しい時代であるから、500万人もの人たちがどのように落ち着き先に辿りついたのか、それぞれのドラマがあった事だと思う。幸い我が家は母や父の親戚を頼って転々とした。それにしても幼子たちを抱えての帰還は親たちにとっても、長くて辛いものだったと思う。何しろ帰るところもなく、行く当てもない旅だったのだ。