国鉄三大事件

国鉄三大謀略事件から62年
  敗戦から4年たった今から62年前の1949年7月から8月にかけて、国鉄の関係するミステリー大事件が3件も続いた。7月6日の下山事件、7月15日の三鷹事件、8月17日の松川事件である。初代国鉄総裁下山氏が常磐線綾瀬駅付近で轢死体となって発見された事件、三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件、東北本練の青森発上野行き旅客列車が、福島県松川駅付近で脱線転覆した事件である。
   事件はいずれも確かな犯人不明のまま、謎を残して歴史の彼方へ埋没されようとしている。それぞれ事件の詳細は別の資料に譲るが、事件の背景だけ述べる。日本も世界も大戦後の混乱期を脱してはいない時期で、国の内外で支配者に対する反対運動が盛り上がっていた。この年の初めに北京入りした毛沢東が10月には中華人民共和国成立を宣言したし、欧州ではドイツ民主共和国東ドイツ)が成立した。

  日本ではこの年の1月の総選挙で、日本共産党が4議席から35議席へ躍進した。共産党は当時、労働組合に大きな影響力を有していた。中でも国鉄労働組合はその中心的な勢力だった。これに対して、占領軍と第3次吉田茂内閣は行政機構刷新および人員整理を目的に100万人を超える労働者の首切りを計画していた。このような事情を背景として三つの事件が起きた。

  下山事件では、作家松本清張氏(1909−1992)は「日本の黒い霧」の中で、「日本の行き過ぎの進歩勢力を後退させるための米占領軍による謀殺」を主張している。何ものかが誘拐殺害後、現場に死体を放置したことは解剖結果から推定されている。人員整理に対抗してストライキを予定していた労組や労組支えていた共産党を牽制することが目的だったと思われている。

  中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件では、国鉄労組内の共産党員20人近くが次々と逮捕され、三鷹事件共産党の破壊活動であると宣伝された。 この事件を契機として、国鉄労組は分裂し、日本の労働組合も分派して全体の労働組合活動は弱められていった。

  松川事件でも、国鉄東芝の労組関係者が20名逮捕されたが、最終的には事件から14年後に、差し戻された最高裁で全員の無罪が確定した。この事件では作家広津和郎氏(1891−1968)は、克明な調査をもとに雑誌「中央公論」に松川裁判批判を連載したが、これに対し田中耕太郎最高裁長官は「雑音に耳を傾けるな」と全国の裁判官に訓示を垂れた有名な話が残っている。

  三つの事件とも作家松本清張氏と広津和郎氏の膨大な資料が書き残されている。残念ながら、事件の首謀者は誰なのかは推定の域を出ていない。「大きな政策の転換は容易ではない。それにふさわしい雰囲気をつくらねばならない。そのための工作が一連の不思議な事件となって現われたのだと思う」と松本清張氏が前記書物に書き残している。今でいうところの国策でっち上げ捜査事件となる。3事件とも真実は明らかではないが、共産党員や労組員が全く関係ないのに犯人にデッチ上げられたことだけは事実である。

松本清張著「日本の黒い霧」文春文庫

広津和郎著「松川裁判」中公文庫
(この二人に対する反論ももちろん存在する)