平家滅亡の原因

平家はなぜ簡単に滅んだか

   NHK大河ドラマ平清盛が始まる。日本史の中でも人物の動きが入り乱れて、理解しにくい場面が保元平治の乱に始まる平家の興隆と滅亡である。保元の乱1156年、平治の乱1159年、平清盛太政大臣就任1167年、鹿ケ谷の陰謀1177年、安徳天皇即位1180年、福原遷都1180年、源頼朝挙兵1180年、清盛死去1181年、平氏都落ち1183年、壇ノ浦の戦い1185年など僅か30年ほどの間に凝縮された激動の時代である。その中で、「平家にあらずんば人にあらず」と言われた清盛が全盛を極めたのは15年ぐらいの間だ。


   集団としては、上皇法皇天皇の皇族、摂関家などの貴族、武士団の三グループだ。それぞれのグループ内で分かれて争うから混乱する。例えば、保元の乱で、天皇方の「後白河天皇藤原忠通源義朝平清盛」と上皇方の「崇徳上皇藤原頼長源為義平忠正」が争って天皇側が勝利した。理解する鍵は天皇家の継承関係で錦の御旗を誰が担ぐかだから、先ずは天皇系図を作成して頭に入れる。これで保元平治の乱の対立関係が明瞭となる。


  平家没落の芽は逆説的だが、清盛の娘徳子を高倉天皇中宮に入れて、武士でありながら娘の産んだ安徳天皇の外祖父として権勢を誇ったことにあった。政権の経済的基盤として多くの知行国と荘園を所有して、ますます武士というより貴族的な性格を強めた。さらには宋との貿易でも利潤を稼いだ。この栄華が行政の乱脈と無駄遣いを生み、折からの天候不順で地方が疲弊して飢餓をもたらした。そのことを契機として、各地の武士団が反平家運動を起こし始めた。まさに「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし」と表現された通りだった。


平家物語1070-1190:文庫本による歴史物語(1)