疲弊した日本の仕組み

疲労した組織

   今から100年前の1912年は明治の最後の年で、大正の始まる年だった。それは明治45年だから、今年は明治145年となる。明治維新の頃は、漸く小規模な水力発電が始まったばかりで、未だ東京の町はガス灯が支配していた。文明開化の掛け声とともに、いまの北朝鮮みたいに産業奨励と富国強兵が明治政府の大方針となった。欧米諸国から法律や行政組織、大学運営から教授たちまで輸入して、近代化の勉強を重ねて、その時にでき上がったのが英国から導入した政府の行政組織だ。
   

   中央集権国家として形成された官僚による統治の機構は、その養成機関である東京大学と共に強固な城を霞が関を中心として築いてきた。1945年の敗戦を契機として、この組織は民主憲法の元で生まれ変わったはずであるが、基本的な機構はそのまま残されてきた。戦後の復興に果たした役割は評価できるが、1990年のバブル崩壊後の低成長期には数々の障害となってきた。官僚組織の弱点は高度成長期には現れないが、成長が止まった段階でまるで雪の下に隠されていたゴミが、雪が解けて表面に出てくるように現れる。


   技術はすべてアナログからデジタルへ進化し、情報の伝達と入手はPCやスマホが中心となり、テレビや新聞までもが時代遅れのシステムへなりつつある。日本の社会も大きく変化し、人口構成も変わり少子高齢化社会になっている。このような変化に取り残されているのが政治と行政のシステムだ。このままでは何度選挙を繰り返しても、日本の先は見えてこない。霞が関の行政システムや永田町の政治の仕組みを一度ゼロから作り直す時期に来ている。2年半前の政権交代がその第一歩だったが、次のステップが期待されている。