日本とスペイン交流史

ハポンさん

   日本のことをスペイン語ハポンという。スペインの南部、アンダルシア州セビリアの南15Kmに位置するコリア・デルリオという町であるが、ここにはハポン姓を持つ住民が多い。1614年に慶長遣欧使節の団長支倉常長(はせくら・つねなが)の一行が滞在した。帰国せずに現地に留まった日本人、使節の現地人協力者などの子孫が関係していると思われる。人口が3万人のうちハポン姓が千人だから、かなりの割合だ。現在、DNA鑑定を通して、日本人の関係がスペインに残されているのか調査が進められている。

   

   伊達政宗が1613年、仙台藩建造のバウティスタ号で支倉常長をスペインに派遣した。信長、秀吉、家康と続いて戦国時代最後に登場した政宗は、今度こそは俺の番だと意気込んでいたが、策士家康は様々な手を打ち、すでに世の中は安定的な方向へと向かっていたため、2代将軍秀忠の後見役としてしか出る幕はなかった。しかし、徳川家がキリスト教新派のオランダと親交を深めていることへの多少の反抗心もあった事だろう。ポルトガル、スペインを通してローマ法王への接触を試みた。


   来年の出帆400年を記念して、この時の日本とスペインとの交流の歴史が、現在、ユネスコの世界記憶遺産としてスペインと共同申請する作業が始められている。資料は日本側とスペイン側にあり、常長らが持ち帰った慶長遣欧使節関係資料の中には、「ローマ市公民権証書」など日本で国宝に指定されている計47点の資料に、常長がスペイン国王フェリペ3世に宛てた書状などスペイン側の資料94点が確認されている。世界記憶遺産には、「アンネの日記」、「マグナカルタ」など現在245件が登録されており、日本からは昨年、「山本作兵衛の炭坑記録画・記録文書」が初めて登録された。

逢坂剛箸「ハポン追跡」講談社文庫