高橋是清(1)デフレ脱却の秘策

高橋是清(1)
浜口内閣の失政
    1914年(大正3年)に欧州で第一次世界大戦が勃発した。戦線とは遠い日本では、戦争特需で経済はおおいに潤った。1918年(大正7年)に終結して翌年パリで講和条約が締結された。これにより各国が生産力を回復して行くに従って、日本経済は落ち込んで行った。これに追い打ちをかけたのが、1923年(大正12年)の関東大震災だ。1927年(昭和2年)には金融恐慌がおこり、銀行で取り付け騒ぎや休業が全国至る所で起きた。1929年にはNYのウォール街の株式相場が崩壊して、これを端緒とする世界大恐慌となり、この大波は日本にも押しかけて来た。
    

    このような経済が苦境の中で発足したのが浜口幸雄内閣だ。その前の田中義一首相が汚職などで反感を買っていた反動で、浜口はその容貌からライオン宰相として人気を博した。ところがNYと同じように町には失業者があふれ、大幅な賃金カットが行われ、労働争議が頻発した。特に農村では、農産物の大幅な下落によって大打撃を受けていた。これに対して、浜口首相と井上蔵相が打ち出した政策が、このような不況下での緊縮財政政策だった。

    浜口内閣は「痛みを伴う改革」を訴え、「全国民に訴う」というビラを全国1,300万戸に配布した。内容は「我々は国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのいで、後日の大いなる発展をとげなければなりません」と言うものだった。日本人としては、カネを使うよりは節約や緊縮で、清貧に甘んじるという耐える心象の方がうけがよい。少なくとも当初は、新聞も加担していたから、支持を集めていた。小泉内閣痛みを伴う改革を利用したし、2年半前にも、民主党は「コンクリートよりも生活第一」と言って政権を取ったのと同じだ。

     デフレの不況下で、このような逆噴射的な緊縮政策をとったために、経済はさらに落ち込んでいった。財政政策だけでなく、為替政策でも金輸出の解禁という大きな間違いを犯してしまった。詳しくは別に譲るとして、これにより輸出振興を図ったつもりだが、設定した固定為替レートは高すぎ、逆に輸入が増えた。また貿易業者は輸入代金を市場から外貨を調達して払うのではなく、高い円で金を買い、これを送って決済した。そのため金はどんどん輸出され、日銀の金の保有量が減った。金本位制のもとで金の保有が減ったため、政府は財政支出を減らす必要に迫られた。これによって経済はさらに落込んだ。この結果、財政支出を削っているにもかかわらず、財政はさらに悪化した。続く。