満州とはどんな国だったか(2)

満州とはどんな国だったか(2)

日本の満州支配はじまり

   この時の日本軍の働きぶりを評価した英国は、1902年の日英同盟に向かう事になる。マクドナルドは、その後、日本駐在公使となった。満州は清国が支配していたが、義和団の乱に乗じて、ロシア軍が居座り、どんどん侵略を続けて、事実上ロシアの支配下となってしまった。北国のロシアの基本的な政策は南下であり、このまま、満州から朝鮮半島にまで支配を進める気配まで出てきた。清国も日本も何もしなければ、朝鮮から日本にまで乗り出してくる事が予想された。

満州写真館 大連(1)

満州写真館 大連(2)

満州写真館 大連(3)

  これに対して、自存自衛のため、日本は大国ロシアに戦いを挑む状況に陥った。日本は事前に清国に通告して、満州でロシアと戦うと断っている。1905年に戦いに勝って、満州からロシアを追い出して清国に返した。1895年の下関条約で、大連や旅順のある遼東半島は日本の管轄となっていたが、ロシアは独仏を誘って、同半島の返還を要求した。日本はこの三国干渉を涙を飲んで受け入れた。この事もロシアに対する敵意を高めていた。ロシアは旅順に難攻不落の要塞を構築した。1904年の秋から冬にかけての要塞攻略が日露戦争の最大の戦いとなった。司馬遼太郎著の小説「坂の上の雲」に詳細に描かれている。

   1905年のはじめに多くの犠牲を払いながらも旅順をおとして、その年の5月には東郷平八郎艦隊がバルチック艦隊をせん滅して戦争は終わった。同年9月にボストンの北にあるポーツマス講和条約が米国の斡旋で開催された。日本はロシアに対して韓国への指導権を認めさせ、旅順と大連の租借権をロシアから取り戻し、満州における鉄道の支配権を得た。これにより、日本は満州におけるかなりの支配権をロシアに認めさせた。その他、日本は樺太南半の割譲も得たしかし、賠償金は獲得できないなど講和の内容に対する国民の不満が高まり、東京では暴動が発生した。→日比谷焼打事件